大叔母との別れ。

ボンジュール。

またまた、お久しぶりのマダムだす。

マダム、決めた!!

ブログを書き出すと、書きたいことがいっぱいありすぎて

ついつい、長くなってしまう。。。

で、マダム自身も地味に疲れる。

もちろん、読んでくれる人も疲れる。

1つブログを書くと燃え尽きちゃって、

なかなか次のブログが書けない。

要は簡潔な文章が書けないアホなんだす。

さぼっているうちに、またネタがいっぱいになって

処理しきれず。。。

ってことでだな、これからはブログを少し短くしやす(今さら、気が付いたか。。。💦)

なるべく、ネタがたまりすぎないように

ちょこちょこ小出しにする、努力をいたしやす。

 

 

それでだ、今日はいきなり暗い話題。

イギリスはまだ、日にちが変わっていないから、今日(19日)だ。

横浜の93歳の大叔母が亡くなった。

マダム、まだ目が腫れとります。。。

一般的には大往生。

よく頑張った、お疲れ様だったな。

実は退院後、9月に受診拒否をしてからは

日に日に衰弱していってたんだす。

食欲もどんどんなくなり、どんどん痩せていった。

じーちゃんが心配して、施設に入ってくれないか?と

何度か提案したらしいけど、いつもきまって

「いーや、私はここで死ぬわ」

と言って、横浜の家を離れようとしなかったおばちゃん。

じーちゃんは、最後は週に1度のペースで様子を見に行っていたんだ。

近所に住む知り合いの奥さんがパートに出かける前と後、

朝と夕方の1日に2回、安否確認に寄ってくれてたんだ。

必要なものも、その人に頼んで買いに行ってもらっていたんだ。

近所の奥さんは時々、じーちゃんに連絡をくれて様子を教えてくれてたんだ。

 

最後の方は、じーちゃんが様子を見に行っても

ソファでうとうとして、ちょっと起きて少し食べるだけ。

あとは常に、うとうとしてたって。

12月に入ってからの衰えは、ほんとに

坂道を転げ落ちるかのような早さだった。

12月20日のおばちゃんの夫である大叔父の命日を迎えられるかハラハラし、

新年を迎えられるかハラハラし。

今度は、3月3日の94歳の誕生日が迎えられるかどうか、って

思ってたんだけどな。

思いのほか、早かった。

1月1日にじーちゃんが年始の挨拶に顔を出し、

また、1週間後ね。。。と別れた後。

5日に近所の奥さんからじーちゃんに連絡があり、

夕方に様子を見に行ったら、ソファから落ちて

起き上がれずに床に転がっていたと。

じーちゃんからは、いよいよ限界かもしれないと

電話があり。

6日に様子を見に行って、

このまま1人にしとくわけにはいかないから

施設に入ってくれないか?

とのじーちゃんの問いかけに、はじめて

いいよ、行くよ、

と返事。

じーちゃんはそこから、以前の入院で相談に乗ってもらっていた

介護関係の人に連絡して、なんとか翌7日の入所を決めて

その日はおばちゃん宅に泊まったんだ。

おばちゃんはずーっとうとうとしつつも、時々

目を覚まして、側にじーちゃんがいるのを確認すると

あら、いてくれたのかい、すまないね、

とじーちゃんを労って、安心したように

またうとうとしたって言ってたな。

それがじーちゃんと過ごした最後の晩だった。

おばはもうすでに、1人で自力でトイレまで歩くことは

できず、じーちゃんに付き添ってもらってトイレまで歩いていたんだ。

 

7日の施設の入所には、介護士の男性が2人、来てくれた。

エレベーター無しのマンションの3階に住むおばちゃんを、

じーちゃんが抱えて下ろすわけにはいかない。

じーちゃんだって70過ぎの立派な老人だし、

骨が弱くなっているおばちゃんをむやみに抱えるには

リスクがありすぎる。

男性介護士が2人がかりでおばちゃんを車椅子に乗せたまま、

3階から1階まで下ろしてくれた、っていってたな。。。

このマンションだって、比較的立派なマンションだけど

エレベーターもない、古いマンションだ。

3階までの階段がいつかしんどくなるから、

早々にエレベーター付きのマンションに移るべきだ、って

何回おばちゃんに提案したか、わからない。

いい運動になるから、これでいーんだ、

っておばちゃん、頑なに言ってたのにな。。。

結局、介護士の介助なくしては

下りれなくなってしまったわけだ。

車椅子ごと、じーちゃんの車に乗せて、

そのまま、施設に入所していった。

コロナ禍で、じーちゃんはお年寄りがいる施設へは立ち入れない。

玄関先で入所の手続きを済ませて、おばの背中を見送るしか

出来なかった、って言ってたな。

面会はもう、行けないから

これが最期の別れになるだろう、って聞いて

マダムも思わず、涙してしまったんだ。

 

おばちゃんも夏の入院で面会が出来なかったことも

十分に承知していたし、これが最期だと

わかっていたはずだとじーちゃん。

ホントにこのコロナさえなければ。。。と

思わずにはいられない。

誰の面会もないまま、1人寂しく個室で亡くなったのかと思うと

たまらなかったけどな。

でも実際は、環境の変化のせいもあったのだろうか。

痴呆がみられはじめて、1日中ほとんど、寝たまんまだったって。

じーちゃんは入所時にスマホや充電器を持たせたらしいけど、

そんな起きて話したりできるような状態ではないって

入所2日目に早々に言われたらしい。

水分もほとんど取れなくなってきて、

ほんとに日に日に枯れていく感じ。

水分の点滴を希望されるか?とナースからじーちゃんに

確認があったらしいけど、じーちゃんは、もうこれ以上

何もしたくないと本人が言っていたから、

自然に任せてください、とお願いしたって。

ナースも同感、と言っていたそうな。

 

 

19日の朝9時半、ナースからじーちゃんに連絡あり。

呼吸がだいぶ浅くなっているから、会いに来たほうがいい、と。

9時50分に家を出たけど、10時過ぎに呼吸が止まったって。

じーちゃんは11時半に施設に着いて、おばちゃんの亡骸と対面したんだ。

マダムはだな、おばちゃんは大往生で良かったと思ってる。

ただ泣けて仕方がないのは、コロナのせいで2年間、1度も帰国できなかったこと。

2年前の渡英の時に

おばちゃん、あんたたちがイギリス行ってる間に死んじゃうよ、寂しくなるな

っておばちゃんが言ったんだ。

その時は、90過ぎてもバスに電車に乗りこなして、

散歩も日課にしたり、デパートによく行く

スーパーばあちゃんだったからな、

なーに言ってんの!おばちゃんは100までぴんぴんしてるよ、

しかもすぐに一時帰国するから、

ってマダムは笑い飛ばしていたんだ。

もちろん年齢的には、もしかしたら。。。って不安もあった。

でも、じーちゃんがコロナになったときには

おばちゃんとその件で連絡も取れていたし、

4月の一時帰国がダメになったときにもlineで報告出来た。

だから、まさかもう2度と会えなくなるなんて、思いもよらなかった。。。

 

電話で話すたびに、

会いたいな、早く帰ってこい!

って笑いながら言ってたおばちゃんと

結局会うことなくお別れしてしまったことが辛いんだ。

でも、誰の面会も許されない

施設の個室で過ごしていたことを思うと、

寿命が数か月延びたところで、この状況が改善して

マダムが帰国できるとは思えないし、

今はこれで良かったんだ、と思うことにしてるんだ。

 

12月のおばちゃんの衰え方があまりにも早かったから

1月1日、マダムは子供たちと夜中の2時過ぎまで頑張って起きて

おばちゃんのもとにいるじーちゃんを通じて、

新年のあいさつをしたんだ。

おばちゃんは1分ちょっとしか、ソファで起き上がって話せなかった。

○○○(マダムの名前)、おばちゃん、もー、ダメだよ。。。

最期にマダムに絞り出すように言った言葉が

忘れられない。

とりあえず、1日に子供たちの姿をlineで見せて、少しだけ話せてよかった。

まだ時間が経ってないから、今でもその時の様子が

目に浮かぶとウルウルしちゃうんだけどな、

大好きだったおじちゃんの元へいったんだ、と思うことにする。

 

とにかく、おばちゃんは

マダムのことを、3匹を、そして夫を

いつも気にかけてくれた。

たくさん愛情をくれた。

母を亡くしたマダムのために

結婚式で着るドレス、お色直しのドレス、

全部一緒に選びに来てくれた。

披露宴の入場でも、マダムに付き添ってくれた。

ホントに、ほんとに言葉でうまく言い表せないくらい、

お世話になった。

これからは、どうか空から見守っていてください。

おばちゃん、本当にありがとう。

超個人的な記録、おしまい。

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