元・超教育ママ。

ボンジュール。

マダムの家族全員おうち生活も67日目。

北ロンドンは今日は晴れ。

ぐうたらパワーアップサタデーで

マダムは家から出なかったけどな、

風が強かったみたいだな。

今日はマダム、ホントにぐうたら三昧。

オンラインで英国史の

最終回の講座を受講したくらいだな。

買い出しにも夫が行ってくれたんだ。

あとはそうだな、これから

映画でもまた、観るかな(笑)

きのうはね、

またまた1人映画時間で

後妻業の女を観たんだ。

じーちゃんが前に

おもしろかったって

言ってたな、と思い出して

観たんだ。

まぁ、面白かったわい。

あれも際どいシーンがあったな、そういえば。

これも、マダムの覚え書きってことで

よろしくだす。

 

月曜から長男のスクールも

ハーフタームホリデーが始まるからね、

今日からホントは3泊4日でドイツに

行く予定だったんだ(泣)

冬も行けなかったしな、

2回連続で行けてないんだ。

マダム、ドイツはまだ1度も

行けてないから、

絶対に、行ったるぜぃと

心にだけは決めてるんだ。

 

今日は記念すべき61投稿目だからな、

何を書くかを考えたんだ。

前回の31投稿目では

父がダイヤモンド・プリンセスに

乗船しててコロナになって

辛かったって話しを書いたな。

なんだかんだで、ぐうたらながら

連続で60投稿は出来たからな、

そこんとこは自分でも

褒めてやってもいいんじゃないかと

思ってるんだ。

ただし、おそろしいほどに

他のことはおろそかになってるけどな。

子供たちのスクールがはじまったら、

連日の投稿は出来ないかもしれない。

はじめに目標で決めた、

週に3回投稿になるかもしれない。

でも、どういう形であれ、

世界中に数人でもこのブログを

読んでくれる人がいるんなら

とりあえず続けたろ、と

思っとります、はい。

今日はそんなわけで、

教育にからめて、

過去のマダムと現在のマダムについて、

思っていることを書こうと思うわ。



マダムは実は元、超超教育ママだったんだす。

マダムのぶっ飛んだ青春時代については

おいおい書いてくと前にいったけどな、

教育ママはその、ぶっ飛んだ青春時代に

起因していると思われる。

詳しいことはまた、後日に書くとして、

マダムが長女を生んだ時には

マダム、大学に入り直して

卒業した直後だったんだわさ。

マダムが大学に入り直したのは

社会人枠での看護入試だ。

早い話しが大学の編入だ。

マダムは18、19歳で家出したりして

紆余曲折があったからな、

当時の進路としてはとにかく、

家出先から受験が出来て

かつ学費もいざとなったら

自分で払える激安価格という理由だけで

国立の看護学校に入学したんだ。

国立の看護学校は

当時は学費が年間72000円と

今じゃ考えられないほど、

激安だったんだ。

とにかく、学費の安さだけで

選んだわけだ。

家出先っつったって

結局は亡くなった母の姉、つまり

伯母のとこに世話になって

フラフラと浪人生活を

送ってただけなんだけどな。

この伯母が開業医でその夫が

医学部の教授という夫婦でな、

亡くなった母の兄弟はみんな、

超エリートなんだ。

そして、開業医の豪邸に

身を寄せている、

腰パン履いて、金髪に近い茶髪の

わけのわからんヤンキーなねーちゃんが

マダムだったわけだ。

以前に書いたように、母との確執で

家出して、伯母の所に

身を寄せたわけだけど、

結局、伯母はめちゃくちゃプライドが

高い、超偏屈な人で

そこでの居候はホントに

大変だったんだ。

仕事でイライラしてると八つ当たりされるし、

お手伝いさんが作っておいてくれた

夕飯のおかずを伯母があっためてるのを見て

マダムが

ご飯よそぎましょうか?

と聞いただけで、

そんなの聞くまでもなくわかるじゃない!

と突然怒鳴られたりな、まぁ、

理不尽極まりないんだわ。

周りには先生、先生って

言われてるもんだから、

とにかく偉そうだしな。

亡くなった母はこの、

12歳も年上の姉である伯母を常々、

姉さんは謙虚さを忘れてしまった

って嘆いていたくらいだ。

そんな人間性の欠如を感じていた姉のもとに

可愛がってた娘が出て行った

もんだから、母も辛かったと思うわ。

マダムも親不孝だったよな。

当時は、そんな伯母と暮らす方がマシだと

思って出て行ったくらい、マダムは

母との確執に悩んでたわけだ。

でも、実際に伯母に世話になってみると

部屋の使い方一つにしても文句を言われ、

風呂場に落ちた髪にも文句を言われ、

そりゃー大変だったんだ。

風呂上がりなんか裸のまま、

排水溝に自分の髪が残ってないか、

風呂場の床に髪が落ちてないか、

マダムは目が超悪いもんだから

メガネをかけて

床に手を這わせながら顔を近づけて

毎晩、チェックしたもんだ。

世話になったから

文句なんか言える立場じゃないのも

よくわかってるけどな、

他人の家で飯を食わせてもらうっつーのは

ホントに大変なことなんだって

身をもって体験したんだ。

厳密には他人ではなく

親戚だけどな、

気まぐれに八つ当たりされる身としちゃ、

親戚ということを差し引いても

なかなかに辛かったんだ。

伯母の所に来ているお手伝いさんが

マダムの唯一の話し相手でな、

彼女とは伯母の愚痴も含めて

ホントによく話したな。

今になって考えるとあの時の辛い経験は

伯母を反面教師に出来たし、

あながち悪いことばかりでも

なかったのかもしれない。



母がイヤで飛び出したくせに

母よりも大変な伯母に

世話になるしかなかったんだ。

伯母の理不尽な八つ当たりが悔しくて、

もっと別の所に行ったろーか

と思ったりもしたけどな、

結局、伯母の所で歯を食いしばったのは

自分がどんどん腐っていって

落ちぶれていくのが

怖かったからなんだ。

安易な道はいくらでもある。

友達の所に身を寄せることも出来る。

でもそれをしなかったのは、

どんなに確執があったとしても

両親が自分を愛してるのがわかっていたし、

親を悲しませたくない、っていう

最低限の良心がマダムの中に

あったからだと思うんだ。

道なんて外そうと思えば、

ホントにいくらでも誘惑であふれてるしな、

後戻りできないくらいに

外せるわけだ。

でも根っこの所では

真面目でチキンなマダム、

茶髪に腰パンで

ヤンキーねーちゃんだったくせに

完全なヤンキーには

なりきれなかったんだ。

この腐った生活をなんとかしなきゃと思って、

日中1人で多摩湖の湖畔を

伯母に与えられたチャリで

延々と考え事をしながら

毎日、走っていた思い出があるんだ。

 

伯母は伯母で、マダムが一生懸命に

勉強すると思っていたのに、

おそろしくマイペースで

真面目に勉強なんてしやしない。

自分がクリニックで

一生懸命働いてるのに、

姪っ子はなんだか

チャリで近所を走る以外は

引きこもりみたいになってて

ボーっと過ごしている。

おそらく、堪忍袋の緒が切れたんだろうな。

以前は行きたい大学に行けるまでは

何年浪人しても構わないから

頑張ってくれたし、と言ってくれていた伯母が

ある日突然、

あんたのぬるさを見てるとイライラするから

今度の入試でもう、浪人は

終わりにしてくれたし

とにかく、今回の受験で

この家から出て行ってくれたし

そう宣告されちまったんだ。

マダムも親戚とはいえ、

他人の家で飯を食べさせてもらうことが

どれだけ大変なことかを

身に沁みて感じたから、

突然の浪人の終了を告げられて

ショックだったかというと

ちょっとホッとしたところも

あったんだ。

伯母もマダムも

終わりが見えない生活で

イヤになったんだろうな。

だったら必死で勉強しろよ、って

話しなんだけどな、

今、思い返してみると

マダムはあのころ、

軽い鬱だったんじゃないかと

思うんだ。

実家がイヤで

家族も友達もボーイフレンドも

全てを置いて家出をしてきたもんだから、

近くに友達がいない。

当時は携帯なんてなかったしな、

マダムが話す人といえば、

マダムを溺愛してくれていた祖父が

伯母の家の離れにいたから

お手伝いさんと、祖父の2人だけだったんだ。

家出した手前、家族に

泣き言も言えない。

勉強してなんとかしなきゃ、って

頭では思っちゃいるけど、

実際には何もする気が起きない。

無気力病だ。

だから、こんな状態で

受験したって受かるわけがない。

そんなことは、

勉強が全く手がつかない

マダムが一番よぉーくわかってたんだ。

マダムの10代はホントに

暗黒時代。

あんまり、良い思い出がないんだ。

 

そんな経緯があって、

今の自分の実力では大学も受からないだろうし、

かといって

なんの結果も出さずに

母のもとへは帰れない。

今の自分の力で

行けるところはどこか。

専門学校の分厚い本を買って

調べたんだ。

専門学校はどこの学校も

学費がかなり高い。

そんな中で見つけたのが

国立の看護学校。

マダムの看護師への道は

とにかく、家出を

終了するためだけの

ホントに不純なものだったわけだす。



3年間の専門学校を出た後の

就職で直面したショックが

マダムの学歴コンプレックスに

磨きをかけたんだ。

マダムは

看護の短大も専門学校も

卒業しちまえばおんなじ看護師、

大学だっておんなじ、

免許としたら

正看護師になるんだから

どれも一緒だべ、と

思ってたんだわ。

だから、学費が一番安い

国立の専門学校を選んだわけだ。

試験だって偏差値だって

短大ともたいして変わらなかったんだ。

今は知らんけどな。

ところが就職活動をするにあたって

病院のパンフレットを取り寄せたらどうだい。

専門卒・短大卒・大学卒で

給料が初任給から違うんだ。

これには軽いショックを受けたな。

なんでこんなに差別されなきゃいけないんだ?

正直な所、そう思ったんだ。

マダムの高校の同級生は

みんな、一流の大学に進学している。

家出したマダムはその価値観とは違う、

看護の世界に身を置いたと思っていたのに

ここでも学歴がついてまわったんだ。

看護師の就職にしたって同じだったわけだ。

ちょうどその頃、看護師の地位の向上とか

なんとかを促進させる動きが始まり出して、

看護師も4年生大学へ移行していく

流れが出来始めていたんだ。

マダムは今は看護の世界にいないから

わからんけどな、

今はおそらく、婦長クラスは

4大卒もしくは院卒じゃなきゃなれないかもしれんな。

働いてても、出身校なんかを聞かれるし、

専門卒と大学卒の待遇の違いに

悔しい思いをしたんだ。

4大のウン百万の学費が

家出したマダムには払えないから

専門学校に行ったのに、

なんでここまで給料に

差がつくんかいな?

マダム、そんな風に感じたんだ。

その悔しい思いが、

看護の大学への編入の

モチベーションになったことは

間違いないな。

まぁ、マダムの進む道の

動機は不純だらけだ。



手に職つけて、自分で💰を

稼げるようになりたいわいという

家出少女の思考で看護学校、

なんで専門と大卒で

こんなに待遇が違いますのん?という

反発で大学進学、

ホントに歪んでるな(笑)

歪みながらも、大学に編入したんだ。

大学3年に編入した5月に母は

亡くなったんだ。

だから、大学のはじめの頃は

ホントに苦しかったんだ。

ただ、母が亡くなったことから

色々とその後の人生について

めちゃくちゃ考えたのも事実。

もともと精神科で働いていたからな、

大学ではおもに女性の精神について

学びたかったんだ。

そんな中、母が婦人科系のガンで

亡くなった。

だから、女性の一生を通じて精神的なケアが

出来るように、助産師の資格も

取りたいと思ったんだ。

これは学年で5人の選抜。

マダム、ここで意地を見せて

編入生の中ではたった1人、

20代後半、ややおばたんにして

助産師の特別講義を受ける資格を

ゲットしたんだ。

当時、必死で勉強した知識は

笑っちゃうほど忘れつつあるけどな、

一応、資格だけは

看護師と保健師と助産師の3つの資格を

持ってるんだす。

上の2匹が小さい時には

保育士の資格も取得して

はっきり言って

資格マニアみたいになっとります、はい(笑)



あんなに泣くほど苦しい勉強を

20代の後半でしたにも関わらず、

卒業と同時に結婚。

これは、まぁ大人の事情があるわけだす。

そう、大学の卒業と出産が同じ年だ。

なんでそんな馬鹿なことを?

働きもしないで?

という声も聞かれそうだが、

マダムが考えに考えぬいた末の

結論なんだす。

マダムは助産学を学んでいくうちに

妊娠や出産は女性が自分の意志で

自由自在にコントロールできるなんて

あまいもんじゃないと

痛感したんだす。

キャリア志向の女性が

まだ、子供はいらない

あと数年バリバリ働いてから

なんて言ってるうちに

いざ、子供が欲しいとなったら

不妊症が発覚したなんてことも

珍しくない。

赤ちゃんがお腹に宿ってくれるのなんて

ホントに奇跡だと思うわけだ。

欲しくなったらいつでもできるなんて

思っちゃいけない。

マダムは母を婦人科系のガンで

亡くしているしな、

母のガンの部位もなかなかに

遺伝性の高いものだと

言われていたんだ。

子宮がんや卵巣がんになって

その臓器を取ることになったら

子供を持つことだって出来ない。

マダムが大学を卒業するのは

立派なアラサー、子供を産むには

適齢期真っ最中だ。

マダムは子供が好きだからな、

自分の子供は欲しい。

卒業後の就職先も決まっていたけれど、

ここで一旦、就職をしたら

当分の間は子供が出来たから

休職しますというわけにはいかない。

もし働き始めたら、自分の子供を持つのは

数年は待たなきゃならない。

女性が妊娠できる期間は有限。

マダムのタイムリミットだって

そんなに長くあるわけじゃない。

ずっと自問自答を繰り返して

結局、就職をするまでの残された期間、

自然の成り行きに任せようと

腹をくくったわけだ。

これで赤ちゃんが出来れば

それが運命、

出来なかったらしばらくは

赤ちゃんをあきらめて

働けということだ。

あんなに思い悩んでいたのに

腹をくくったら

マダムは子供ができやすい体質だったみたいで、

すぐに出来た(笑)

だから、じーちゃんをめちゃくちゃ動揺させたし、

決まっていた就職先にも迷惑をかけたし、

全てが急にドタバタしたんだけれど、

自分の気持ちにイヤというほど向き合って

決めた覚悟だったからね、

卒業後のこの専業主婦には

後悔はしていない。

なーんて言ったら、うそになるか。

もし、バリバリ働いていたら

どんな人生になっていただろうかとか、

色々と考えて想像することはあるんだけど

想像しようが何しようが

今、ここにある姿がマダムなわけだから

受け入れるしかあるめぇ。

3匹に出会えたことに感謝して

おビンボーに細々と暮らしてますがな。

家出少女は紆余曲折を経て、

編入した大学を卒業した夏に

長女を出産したんだす。

 

長女を出産後はどうなったか。

それが元、超超教育ママですがな。

とにかく、卒業してから出産までの

数ヶ月に育児書を読み漁ったんだわ。

しかも、その年の2月だか3月に

保健師と助産師の国家試験を

経験したもんだからな、

知識だけはめちゃくちゃあるんだ。

勉強グセも国試が終わったばかりで

ついてるもんだから、もう最強(笑)

今までの恨みつらみ、後悔、無念を

全部育児で取り返そうと

並々ならぬ気合いで

取り組みだしたんだす。

長女が実際に生まれたら

もう、産後のハイも良い所。

嬉しくって嬉しくって

べビーリングは作るわ、

手形足型のアニバーサリープレートは作るわ、

バカラのグラスはオーダーするわ、

長女の誕生石を埋め込んだリングは買うわ、

オメガの時計の裏蓋に長女の名前と生年月日を入れて

もらったのを買うわ、

名入りのハワイアンジュエリーをオーダーするわ。。。

アニバーサリー女、浮かれてしまって

いくら使ったかわからないくらい、

浪費もしたんだ。

全部、夫の💰だけどな(笑)

長女の顔も一日中、見て過ごしたんだ。

あぁ~、可愛い♡ 萌え~♡

なんて馬鹿みたいに大量に写真撮ったりしてな、

朝から長女の横で寝そべって顔を見てると

気がつくと夕方になってることも

ザラにあったんだ。

長女のことが可愛くて可愛くて、

この子にはマダムみたいな

紆余曲折の人生は絶対に歩ませまい、

最短距離で成功させたる、

くらいに思ったんだ。

やっぱり、相当な学歴コンプレックスが

あったと思うね。

生後4ヶ月からはベビースイミング、

生後半年?からは英語のベビーサイン、

とにかく思いつく限りはなんでもやった。

ウン十万もするディズニーの英語教材も

買うかどうか、本気で悩んだ。

だから、マダムの大学時代の友達が

少し前に出産しはじめて、マダムに

ディズニーの英語教材って買った?

買うの、めちゃくちゃ悩んでる

って言ってきて、

うわぁ、やっぱり同じ道をたどるのね、

なんて爆笑したことがあったんだ。

結局、教材は買わなかったけどな。

 

マダムはこの頃、幼児期の教育の

重要性をめちゃくちゃ感じていて、

子供はスポンジのようになんでも

吸収するから、ここでたくさんの

刺激に触れさせなきゃダメだ!と

まぁ、とにかく気合い入りまくってたんだ。

子供には無限の可能性があるとも

思ってた。

これは今でも思ってるな。

しかも、子供の成長発達には

臨界期があるから、それを逃してはなるまい

とも思ってたわけだ。

音楽なんかは小さい時から

はじめておかないと、

8歳過ぎてからピアニストになりたいなんて

言ってもなれないと思ってだな、

長女はなんと、2歳9ヶ月から

ピアノを習わせたんだす。

ピアノ教室の受け入れ年齢が3歳からだったのに

わざわざ問い合わせて、当時の長女は

おそらく、マダムの並々ならぬ期待に

応えるべく、それはそれは大人しい

お利口さんだったからな、2歳9ヶ月でも

30分静かに椅子に座っていられるかというチェックに

合格して、ピアノ教室に通えることになったんだ。

バレエも同じように3歳から習わせたな。

まぁ、こんな感じでもう、ハンパない

教育ママっぷりを発揮していたわけだ。

マダムは隠れ教育ママはイヤだからな、

他のママ友にもめっちゃ教育ママやねん

言うとりましただす。

とにかく、💰をかけまくって

長女を仕上げようとしたわけだ。

 

 

勉強に関して言えば、

3歳からインド系のインターナショナルスクール。

ひらがな、カタカナがおろそかになっちゃいけないと

知育の教室に加え、公文の書写教室にも通ったんだ。

小学校1年生からは四谷大塚で国語と算数。

インド学校ではオール英語なわけだから

相当きつかったと思うけど、マダムは

んなもん、気合いだ!

とか、わけのわからん激励をして

尻を叩き続けて、

4年生からは日本の中学受験に向けて

4教科をやらせはじめたわけだ。

帰国子女枠での入試が

インター生でも出来るから

それも考えたんだけど、

やっぱり学校の選択肢が

大幅に少ない。

だったら、どちらでもチャレンジ出来るようにと

両方の塾に通わせたんだ。

まぁ、かわいそうに長女は

キャパオーバーだったんだな。

日に日に生気が無くなってったんだわ。

それでも、マダムはこれまでに

つぎ込んだ💰と情熱を

無駄にしたくないという意地があってだな、

長女に無理をさせたんだ。

結局、インド学校も学年が上がるにつれて

どんどん宿題も増えるし、内容も難しくなってくる。

これに加えて四谷大塚の4教科は無理という結論に

達してだな、長女の4教科受験をあきらめて、

帰国子女枠での受験に的を絞ることにしたんだ。

四谷大塚を辞めてからの長女は

どんどん、元来の明るさを取り戻していったな。

後になって

私、塾がイヤで仕方なかった

なんて言われてな、

あやつに相当な負担を強いてたマダム、

反省したんだ。

イギリスへの引越し準備の時なんかな、

社会や理科のミニテストの

0点のペーパーが何枚も

長女が丸めて隠していたのが出てきたんだ。

これを見つけて、

マダムが良かれと思って

突っ走っていた教育ママ街道は

やる気のない長女を置きざりにしたまま

マダムだけが1人で走っていて

失敗だったんだな、

子育てなんてホントに

思い通りになることなんて

ないんだな

って思ったんだ。

で、イギリスだ。

夫の転勤でここに来たのは

長女が小5の1月だ。

3~5年の赴任だとすると、

中学受験には間に合わない。

4教科は4年生であきらめたけど、

まだ、帰国子女の受験塾には

通っていたからね、

なんだか今までの努力が

もったいないなぁ、って感じて

後ろ髪をひかれる思いもあったんだ。

でもこっちに来て、

めっちゃくちゃ楽しそうに

過ごしている長女が突然、

私、中学受験なんてホントは

したくなかったんだ、

だから、受験を止めて

ロンドンに来れたのが

嬉しいの

って言ってきたんだ。

マダム、この言葉はさすがに

効いたね。グサッときたな。

4教科受験の塾は辞めさせたし

負担がないように

帰国子女の受験にしようとしていたのに、

それすら嫌だったなんて

はじめて知ったんだ。

何がそんなにイヤだったの?

って聞いたらだ、

試験にパスするための勉強を

興味がなくてもやらなきゃならないことが

イヤだったんだ、

ってはっきり言われちゃったんだ。

マダム、そこまであやつの気持ちに

気づいてやれなかったわい。

小5ともなれば、もう立派な

意志もある1個の人間だ。

あやつはしっかりしたところもあるし、

なにより超頑固だからな、

もう、マダムが横から

口出しするのは一切、

やめた方がいいと思ったんだ。

頭がいいし、いわゆるお勉強はできるけどな、

相当変わってるし、もしかしたら

大学なんて行きません、

って言ってくるかもしれない。

でも、もうそれでもいいと思ってるんだ。

あやつの人生で、あやつが決めることだ。

マダムが過度な期待をかけちゃいけないし、

あやつは強烈に自分を持ってるから

親の言うことなんて聞きゃーしない。

そんな風に、長女に関しては

悟ったんだす。

そして、こういう風に悟ることが出来た

イギリス行きに、今さらながらに

感謝してるんだ。

やっぱり、日本の首都圏の

教育熱はハンパないものがあると思うね。

マダムはその渦中で

ひと際、バリバリの教育ママぶりを発揮していたけどな、

ロンドンの下町でのーんぴり過ごしてみて

あの時の教育熱は一体、なんだったんだろう?

って幻のように感じるんだ。

東京はなんだか、マダムを焦らせるんだ。

そして、超教育ママになっちゃう。

あのまま日本にいたら、

マダムは長女をさらに追い詰めていたかもしれない。

一旦、外に出て離れてみることで、

本当に大切なものは何かを

気づかせてもらったような

気がしてるんだ。

 

 

並々ならぬ情熱を注いでいた長女のことを

実は他ならぬマダムが追い詰めていたことに

気が付いて反省したら、

あとはもう、もぬけの殻よ(笑)

だって、一番しっかり者の

長女がダントツで有望だったんだから。

あとはほら、不思議とわがまましか

いないじゃない。

マダム、燃え尽きちゃったんだ。

年も取って、枯れちゃったのもあるしな。

今はどうしてるかというと

教育ママとは似ても似つかぬ状態で、

3匹は放置、もう好きにやってくんさいだわさ。

イギリスに来て環境だって

3匹も変わってるわけだしな、

環境に適応するのだって大変だ。

ちょっとくらいアホでもいーがな、

毎日元気で笑ってればドンマイ、

登校拒否にならずに学校に通えればドンマイだ。

アホすぎて問題になれば

スクールから連絡もあるだろうし、

先にあれこれ悩んでも仕方あるめぇ、

出てきた問題に1つ1つ対処してくしかないがな、

と腹をくくったというか、あきらめたというか。。。

 

 

チビなんかはホントになんにも

やらせてないって以前に書いたけどな、

これは長女の反省があるからなんだ。

長女の時は3歳くらいから一生懸命

ひらがなやカタカナをやらせて

それこそ他の子供よりも

早く出来るようにはなった。

だからって何だい?

それだけのことじゃ。

あんなもん、遅かれ早かれ

いつかやるんじゃい。

さすがにチビもそろそろやらせようかとは

思ってるけどな、あやつはもう、4歳半になるわけだ。

3歳で出来たからすごいとか、

別にそういう問題じゃないがな。

ピアノだってそう。

長女なんて2歳9ヶ月と早いスタートを切ったけど、

5歳から始めた友達にすぐに追いつかれたわ。

なーんだ、別に早く始めなくったって

いーじゃん、

マダム、気合い満々で突き進んでたからな、

そこまでガッチガチに頑張らなくても

子供は自然と自分が好きなこと、

自分に向いてることを見つけていくんだ、

取捨選択していくんだって思ったんだ。

長女なんか、バレリーナにもなれるように(笑)

3歳からバレエも習わせといたけどな、

超センスなし、何年やってもド下手で

マダムもあきらめたわ。

しまいには本人も

バレエは大嫌い!

なんて言い出す始末だ。

あやつは逆立ちや側転、スケボーの方が

好きだったわけだ。

もうね、親の理想通りになんて子供は

育たないわな。

親不孝していたマダムが

一番いい例だわさ。



マダムは今、長男にだけはめちゃくちゃ、

べんきょーしろ、べんきょーしろ

言い続けとります。

あやつはいまだにアホだから

なぜに勉強をしなくちゃならないのか、

わかってないがな。

マダムの子だもんな、

気が付くのもめちゃくちゃ遅いかもしれん。

マダム、いーっつも言うんだす。

何か夢中になれるものがないなら

とりあえずべんきょーしとけ。

マダムはおぬしに

将来、○○になりなさい、とか

○○になって欲しいなんつー希望は

全くないわい。

おぬしが自分でどんなことなら

将来的に苦痛じゃなく仕事としていけるか、

これから探していけばいいわさ。

ただ、おぬしがある日、なりたいもの、

やりたいことが見つかったとする。

その時にべんきょーしてなかったばっかりに

アホで、その希望がかなえられなくて

悔しい思いをするおぬしを見たくないんだ。

選択肢を狭めて欲しくないんだ。

自分が選んだ道にいつでも進めるように

とりあえず、スクールの勉強と

塾の漢字だけはやりなはれ。

もう、これを何十回と言って聞かせてるんだけどな、

あやつは言っても言ってもやらないんだ(笑)

まぁ、ホントにある意味、

強靭な意志でやらないことを

貫いてるな。

勉強よりももっと、才能があることを

これから見つける、なんていうからな、

そんなことをほざくのは

どこかに才能を見つけてからにしろ、ぼけぇ!

と一喝してるんだす。

あとはこんな風にも言うとります、

マダムはおぬしにしつこいくらいに

べんきょーしろ言うてるがな。

それでもやらないのはおぬしだ。

おぬしの責任だ。

いいか、期限は18歳までだ。

それまでに進学するなり就職するなりは

絶対に決めてもらわなきゃ困る。

ニートなんて許さねぇ、そん時は

なんとしてでも家からつまみ出すからな。

まぁ、こんな感じであやつには

もう、毎日毎日、言って聞かせてるんだ。

 

めちゃくちゃ長くなっちゃったけど

マダムの辛い過去と抱えていたコンプレックス、

それを前面に押し付けた育児の失敗について

61投稿目として書きやした。

 

また、ぶっ飛び青春時代については

いつか書こうと思いやす。

 

読んでくれてありがとう。

 

おしまい。

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