Mother…

ボンジュール。

マダムの家族全員おうち生活も53日目。

北ロンドンは本日も快晴なり。

今日はぐうたらパワーアップサタデー、

きのうに続きお休みだす。

そうだな、今日はちょっと私的な話しを

させてもらうかな。

 

おとといは長男の誕生日の夕飯の胃のむかつきで

なかなか寝付けなかったマダムだったわけだけど、

きのうもまた、マダムにとっては

大切な日だったんだ。

きのうは、マダムの最愛の母の命日なんだす。

15年前のまさに母の日に

20代後半のマダムを残して

母は逝ってしまったんだ。

ガンで8年もの間、闘病していたからね、

ホントに満身創痍だったわけだ。

だから、もう苦しまなくていいよ、

お疲れ様、っていう気持ちと

まだまだ、マダムの結婚も出産も

見届けて欲しかった、

これから母亡き後、

どうやって生きていったらいいんだろう?

っていう絶望と悲しみを

味わったんだわ。

今の夫とも交際中でね、

やつが入院して闘病生活を送っている

母のもとに挨拶がてら、

お見舞いに行きたいって言ってくれたことが

あったんだわ。

正確には、言わせたんだけどな(笑)

っつーか、マダムが母に

やつの事をジャッジして欲しくてだな、

やつを連れて母の病院まで

お見舞いがてら、

見せに行こうとしたことがあったんだ。

そしたら亡き母、

今はこんな病身でみっともないから

退院して、ちゃんと身なりを整えてから

彼には会うことにするから

もう少し待っててください、

お見舞いに来てくれようとした

お気持ちだけありがたく

受け取っておきます、

と伝えておいてくれ、

ってマダムに言ってきたんだ。

結局、そのまま還らぬ人となってしまったけどな。

母は自分の余命がそんなに長くないことも

十分にわかっていたからな、

おそらくマダムの母として

やつに会って醜態をさらすくらいなら、

会わないで美談で終わらせたかったのかも

しれないな、となんとなく

思ったりもするわけだ。

マダムもその時は痩せててだな、

ちったぁ~もてたから(笑)、

今は亡き母に

夫と○○君と○○君が

交際を申し込んできてるんだけど、

ママだったらどれにする~?

誰がいいと思う~?

マダムも適齢期だから、

今度の交際はそろそろ勝負かけなきゃ

ならないと思うの~、

なーんて、どーしようもない

恋バナを聞かせて、相談に乗ってもらいに

せっせと病床の母のもとに

通ってたからだな、

夫と一度も対面できなかったことは

ちょっとだけ心残りがあるんだ。

でも、母はマダムからざっくりと

いや、おしゃべりマダムだから詳しく

メンズの概要を聞いてだな、

絶対に夫!これにしときんさいって

言ったんだわさ(笑)

イケメンでもないし、無口だし、

おもしろくもないけど

真面目だけが取り柄で

ちょっと年上で

怒ることがほとんどない夫。

この物件が絶対によかろう、と

強く推奨してたんだわ。

で、母の強い勧めで

夫と付き合って、

旅行なんかも誘われて

行ったりしたからな(じーちゃん、ごめん💦)、

マダムは母にじーちゃんには

言ってなかったことも

たくさん、病床で報告したんだわ。

だから、マダムの夫に最後まで

会うことはなかったけどだ、

おそらく、彼と一緒になるだろうと

そこまでは見届けて

逝ったわけだ。

 

マダムは徐々にブログに書くことにするけどだ、

なかなかに波乱の10代、20代を過ごしていてだな、

浪人時代に家出したりと

ぶっ飛んだ青春時代を送ってたんだわ。

だから、母とは実質19歳?だかで家を出て、

勤めていた病院を退職してから1年弱の間、

家に出戻っていた期間以外は

生活も共にしていなかったんだ。

だから料理をはじめ、家事全般の

手ほどきも母から

一切、受けてこなかったんだ。

自分が適齢期になってようやく、

母から女性としての

たしなみみたいなものを

そろそろ真面目に教えてもらわなきゃな、って

思ってた矢先に、母が

亡くなってしまったんだ。

その時の心境たるや、

なんだか高い崖から

いきなり突き落とされたような

そんな気持ちになったんだ。

 

母の名誉のためにも書いとくと、

母はマダムとはホントに正反対なんだわ。

体は小さくて痩せてて、とにかくよく動く。

几帳面できれい好き、休みの日でも

メイクもちゃんとするような人だったんだ。

マダムも自慢のキレイな母だった。

ある意味、マダムがこうなったのは

母がそれこそ、出来すぎかーちゃん

だったからではないかと思うんだ。

とにかく、スーパーウーマンだった。

頭がおそろしく切れる女性でな、

家では英数教室の塾を個人で

経営してたんだ。

もちろん、英語っつったって

スピーキングは下手くそだけどな、

高校生までのレベルだったら

普通に読み書きは教えることが出来て、

近所の高校生なんかも習いに

来てたんだ。

数学のセンスも抜群、

高校レベルの数学もいとも簡単に

解いちゃう母だったんだわ。

だから、母には強い憧れがあったけど、

おそらくああはなれない、みたいな

妬みやひがみがマダムの中には

ずっと渦巻いていたんだろうな。

 

母は好奇心も旺盛で

英数教室の塾の経営で忙しいのに

日中は着付け、茶道、書道、陶芸、英会話なんかの

自分の趣味や勉強にも余念がない。

じーちゃんが単身赴任だったもんだから

夫が常に不在の状態でその上、

マダムの父方祖父母と同居していたんだ。

夫がいないのに、

夫の両親と生活をしていたわけだ。

日中の習い事を忙しくしてたのは、

好奇心が旺盛だったのもあるんだろうけど、

舅と姑のいる家から少しでも

離れていたかったのもあるんだろうなと

思うわけだす。

今になってみると、

なかなかにストレスフルな生活を送っていて、

母もかわいそうだったんだなぁと思うんだ。

 

マダムが料理全般の手ほどきを

受けたことがないっつーのも

母は日中は自分の趣味で忙しくて、

夕方からは塾の生徒が来るわけだ。

それまでに、家族の夕飯を

作らなきゃならないからだな、

いーっつも鬼のような形相で

おそろしいほどの速さで

キャベツの千切りなんかをしていた光景しか

マダムは思い出せないんだ。

母と娘の素敵なお料理タイムなんてものは

皆無だったわけだ。

マダムがちょっと料理に関心を持ちはじめて

ママとやってみたい、って台所でウロチョロした時には

ちょっと!時間がないんだから

そこどいて!もう、ここに入って来ないで!

なんて言われて、台所から追い出されて

子供心に傷ついたんだわ。

そうやって、いつも時間に追われて

マダムの気持ちに寄り添ってくれなかったのにだ、

マダムが15、16歳になると

お友達の子供は、料理を作ってくれるんだって!

うちの子なんて何にも出来ない、

マダムにも明日から料理を作ってもらおうかしら

なーんて突然言ってきたもんだから、いいようもない

怒りを覚えたことがあったんだ。

マダムからしたら、

一番料理に関心を持ち始めた時期に

めちゃくちゃ邪魔者扱いされて

台所から追い出された記憶しかないわけだ。

母からなんの手ほどきも受けないまま、

料理や家事に関する関心は

とうの昔に完全に消え失せて生活していた頃に、

いきなり他人の子供は

料理が出来るのにうちの子は

何も出来ない、なんて文句を

たれてきたわけだ。

しまいには、なんにも教えてこなかったくせして

明日からは作ってもらおうかしら、だって?

ふざけんな!!

そう、マダムは母に対して

強い憧れと愛情を持っていたにも関わらず、

10代~20代前半にかけては

母との確執に苦しんだ経験があるんだす。

じーちゃんにこの話をした時はだ、

じーちゃんに甲斐性がなくて

母も塾を経営するしかなかった。

ホントに忙しくて、

子供との時間が持てなかったのは

自分(じーちゃん)のせいだって

言ってたけどな。

母はスーパーウーマンだったけど

あまりに忙しすぎて

子供との時間がしっかり

取れなかったわけだ。

だから、マダムの幼少期の思い出は最悪。

母は小学生~高校生まで教えていたから

午後の3時、4時から夜の10時、11時までは

同じ家にいるのに2階の教室にこもりっきり。

父は単身赴任で不在、

兄は電車に乗って中学受験の塾通い。

同居する祖父母なんてのは、

夜の8時くらいには寝ちゃうんだ。

マダムはいーっつもこたつの中で

テレビを見てボーっと過ごしていたんだ。

たまに母が夕飯を食べたか、とか

ピアノの練習の音が聞こえないとか言って

様子を見に来る以外は

誰もいない。

テレビを見ながらそのままこたつで

眠りこけて、母にはたかれるなんてことも

よくあったわ。

母にしてみたら

家族のために身を粉にして

働いているのに、

子供は親の背中を見て育つっていうし

がむしゃらに働いている姿を見せて

日々、頑張っているのにだ、

塾が終わって階下に降りてみたら

娘がアホ面こいてこたつで

寝ているんだもんな、

腹も立っただろう。

まぁ、こんな感じで、

母に構ってもらいたかったマダムと

夫が不在で男勝りなスーパーウーマンは

衝突が絶えなかった。

母は父がいなかったから、やっぱり

父親の役割も担ってたんだ。

小さな体からは想像もつかないくらい、

性格も男前。

考えてみたら、今の長女が

亡き母にそっくりな気がするわ。

夏休みなんかは💰もないし、

父もいないしで、

母がマダムと兄を連れて

車で京都まで旅行に行ったんだ。

今、自分が運転する身になっても

子供連れて1人で運転して

京都までは無理、って思っちゃう。

やっぱり、母はすごかったんだなぁと

今更ながらに日々、痛感してるんだ。

 

マダムと母の衝突も

母の男前な性格ゆえにが

非常に多かったんだ。

マダムはただ、不安や悩みを

母に聞いて欲しかった。

うんうん、そっか~

ホントに、それだけで良かったんだ。

それなのに母は、

んなもん、ぐちゃぐちゃ言ったって

しょーがないだろう?

私にどうしろって言うのさ?

っていう返事なんだわ。

で、子供の悩みや不安をダラダラと

聞く時間もなかったからね、

ねぇ、まず用件言ってくれない?

あなたの話しは長くてイライラする、

結論から言えや、

とくるわけだ。

そうした母のバッサリした対応に

マダムはイチイチ傷ついて

この人にマダムの気持ちなんて

一生わかるまい、と

母に強い反発を覚えたんだ。

だから、好きで好きで大好きだった母に

ずーっと構って欲しくて

片想いしつづけたような

なんだか切ない思い出が

いっぱいあるな。

 

 

10代後半から20代前半にかけては

母への強い反発。

塾でよその子供を教えることに一生懸命で

ちゃんと自分の子供に構ってなかったくせに

よくもそんなことが言えるな、っていう

恨みつらみに苦しんだんだわ。

この、母への恨みつらみを

自分で解決するべく、

カウンセリングに通ったりもしたんだ。

マダムもその頃は

精神科で看護師として働いていたからな、

カウンセリングを利用することで

自分の心と向き合って

母への思いを整理してみようとしたんだわ。

結果としては

カウンセリングに通って

自分の内なる気持ちに向き合えたことは

非常に良かった。

時に痛みも伴う、辛いものだったけどな。

母との話し合いも何度も試みて

その度にガッカリしたり

涙したりしたけれど、

母も人間。

いくらマダムと血が繋がっていたって

やっぱり母も一つの個、なわけだ。

親だからって全てわかってくれるわけじゃないし、

マダムだって母が理解できないこともある。

そんな感じで自分の気持ちに

折り合いをつけることが出来たのは

母が亡くなる2、3年前だったんだ。

だから、若い頃には母との確執に

苦しんだけど、最終的には

母ともなんとか良好な母子関係を

築くことが出来て、

母は逝ったからね

もっともっと一緒にいたかったなって

気持ちはもちろんあるんだけれど、

気持ちの上でのわだかまりは

解消されて、本当に

良かったと思ってるんだ。

 

マダムの家は父も母もなかなかに

ぶっ飛んでてだな、

70代にしちゃ、かなり

型破りな人間なんだわさ。

母なんかは

クリスマスのご馳走は作る人だったけど

正月のおせち料理はほとんど作らなかったんだ。

作れなくはないよ、料理もうまい人だったからね。

単純におせち料理が嫌いだったんだ。

おせち料理なんつーのは

昔の人間の保存食なんじゃい、

今はスーパーだって元日から

やってるからだな、んなもん

作る必要ないわ、

だったら、豪華に

カニ食べてすき焼きやろうぜぇって

人だったんだ。

まだまだ他にも色々なぶっ飛びエピソードがあるけど、

それはおいおい、マダムのぶっ飛び青春時代で

書こうと思うわ。

 

 

死後に関しても両親ともに同じ意見。

墓を持ったら、子供や孫なんかが

住む場所なんかの制約を受けるだろうし

墓の管理に気を配らなきゃならなくなるから

墓は要らねえぜ。

なんだったら、海にでもぱぁーっと

撒いとくれ

っつーわけだ。

じーちゃんは母と一緒に

散骨でもなんでもしてくれたしと言ってだな、

母の骨壺を自分のベッドの下に置いて

寝てるんだわ。

人によっちゃー、墓に骨壺をおさめないことには

成仏出来ないとかなんとか言って

じーちゃんが母の骨壺を家に置いとくことに

異議を唱える人もいたけどな、

偏屈じーちゃんはそんなの屁のかっぱなわけだ。

じーちゃんからしたら、

亡き母を自分のもとから

わざわざ離すこともあるめぇ、かわいそうに

俺が死ぬまで傍に置いとくっつーことだ。

母も墓とかそういうものに

なーんのこだわりもない人間だったからな、

偏屈じーちゃんのやることに

なんの異議もないだろうと

マダムも確信してるんだ。

マダムもじーちゃんが死んじゃったら

自分のもとに母とじーちゃんの骨壺を

並べて置いとくかもしれないし、

散骨するかもしれないし、

💰があれば2人の遺骨でダイヤモンドの

ネックレスでも作って

常に身に着けておこうかと

思ったりしてるんだ。

おそらく、じーちゃんも母も

あんたの好きにしんさい、

なわけだ。

我が家はそうした形なんかには

全くこだわらずに育てられてきたからだな、

楽と言えば、すんごい楽だ。

こういう何事にも

縛られない子育てをしてくれたことには

感謝すらしているんだ。

が、しかしだ

その反面、

七五三なんかも一切やらなかったし、

子供の写真なんかも家に飾ったりしてない

まぁ、超あっさりした家庭だったんだ。

そんなマダムは今、どうなっているかというと

アニバーサリー大好き女(めんどくせぇ💦)だすよ。

子供の成長の節目には

ハウススタジオやスタジオアリスやとにかく

色んな所に足を運んでだな、

記念スナップ撮りまくりだすよ(笑)

日本に全て置いてきちゃったけど、

家の中は子供の写真だらけだ。

あっさりすぎる親に育てられた反動が

今になってきてるわけだ。

じーちゃんや亡き母の趣味ではないかもしれないけどな、

マダムもマダムなりの生き方があって

両親とは全く違う家庭を築けばいいわけだ。

 

亡くなる前に母はマダムに

あなたはとっても太りやすいから

絶対に○○㎏を超えちゃだめよ、

これはママの遺言だと思っておきなさい

なーんて言って亡くなったんだ。

おかーちゃん、ごめん!!

○○㎏なんて、もー超・超大幅に

オーバーしとりますがな💦

かーちゃんは今頃、天国で

泣いてるだろうか。

それとも、夫と

ゴールインしてんならいんじゃねって

言ってるだろうか?

 

 

がんが発覚した時に

好奇心旺盛な母が

私、行きたいところも

見てみたいものも

山ほどあるのに

このままじゃ死ねないわ

って言ったことが忘れられないんだ。

それからの8年は母はホントに

自分のためだけに生きたと思う。

英数教室もたたんで、

1週間の抗がん剤治療の後は

翌週は副作用でぐったり、

次の抗がん剤治療の開始までの

2週間で、友達と

色々な国に旅行に行きまくったんだ。

旅行に行く気力と体力がなくなったら

私も死ぬ時だわ

なんていって

命ある限り、どん欲に旅行を

楽しんだんだ。

マダムの旅行好きは

おそらく母から受け継いだんだろうな。

ホントに好奇心の塊のような母だった。

結局、彼女が何か国旅行したのかとか、

どんな景色に胸を打たれたのかとか

そんなことは母の口から聞くことなく

彼女は亡くなってしまったけれど、

果たして

行きたいところは行きつくしたと

満足して亡くなったのだろうか。

いや、彼女のことだから

もっともっと長生きして

まだ見ぬ土地、まだ見ぬ景色を

見たかったに違いないと

マダムは思うんだ。

 

こんな感じでマダムは

5月8日になると

病院で亡くなってしまった

母のことを

毎年、思っているわけだ。

母が自分の両親の供養のために

買った小さな仏壇を

マダムは母が亡くなった時にもらったんだ。

一応、ロンドンにも持ってきたんだけどな、

かわいそうに普段は

埃をかぶったままだ。

で、命日になると

おかーちゃん、ごめんって

気になってだな、

その時だけ

キレイに掃除して

お供え物をしたりして、

仏壇に手を合わせるわけだ。

きのうはなんだか、

ずーっと亡き母のことを考えてだな

なんだか感傷に浸っていたわけだ。

そういえば、こっちに来てから

一度も線香もあげてやって

なかったんじゃないかえ?

ってことに気がついてだ、

かーちゃん、親不孝の娘を

許してくんさいと

線香をあげることにしたんだわ。

まず、香炉すら出していないことに

気がついてだな、

イギリスに持ってくる際に

ミニ仏壇の引き出しにしまって

そのままになっていた

香炉と香炉灰をようやく出すという

ぐうたらっぷりだ。

もう、ホントにひどい娘でごめんな

って思って線香を焚こうとしたらどうだい、

。。。線香がねぇし(泣)

ホントに自分のダメっぷりに

またまた、落ち込んじまった

マダムなんだす。

という、なんとも情けないオチで

おかーちゃんの仏壇は

ようやく香炉と香炉灰が

セットされたものの

線香はなかったとさ。

↑ホントに花1つない、かわいそうなくらい何もない仏壇。食べかけのお菓子までお供えしちゃうこのいい加減さ。

 

ホントにごめんな。。。

 

今日は、マダムの超個人的な母の感傷に

付き合ってくれてありがとう♡

 

おしまい。

 

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